フリーセルがクロンダイクに捕らわれ、監視されていた時のこと。
 クロンダイクの姪であるメランコリィは当然のように監視モニターのリモコンを握っていて、暇さえあればフリーセルの様子を眺めていた。しかし初めのうちは面白がっていた彼女も、1日、2日と時間が経過するごとに、表情に苛立ちを募らせていった。
「つまらないですわ」
 とうとうメランコリィがそう口にしたのは、彼の軟禁生活が3日目に入ろうとした頃だった。
 彼女が退屈に思うのも無理はない。フリーセルはベッドの上に横たわって、虚ろな目でペンダントを見つめるばかり。起き上がることさえなく、用意されたパンや水にもいっさい手を付けないのだ。
 メランコリィは、抗議するようにホイスト――暫定的にフリーセルの管理責任を負っている、彼を見た。
「フリーセルったら、全然動かないんですもの。まるで屍ね。自殺でもする気なのかしら」
「そうですね――このままでは衰弱する一方です。強制手段を取ることもできますが」
「必要ありませんわ。今はまだ」
 そう言うとメランコリィはモニターの電源を切り、ゆっくりとソファから立ち上がった。
「部屋のロックを解除してちょうだい。私が行きますわ」
「そう言われましても、メランコリィ様の身に何か起きた場合、クロンダイク様から叱責を受けるのは私になるのですが」
「いいから言う通りにしなさい、ホイ。どうせ何もできませんわ。彼、何日も食べていないんでしょう?」
「はあ……」
 ホイストが、呆れたように溜め息をつく。メランコリィが何を考えているのか彼には分からなかったが、彼女の機嫌を損ねるのも面倒だった。要求を断れば、その次は彼女があれが気に入らないこれが気に入らないと延々難癖をつけて、ホイストをうんざりさせる作戦に出るのは明白だ。
 もちろん普段のホイストなら、そんな子供じみた腹いせに左右されることはない。しかし、今のホイストにとって――フリーセルがファイ・ブレインとして覚醒するのを見届けたホイストにとって、いずれ裏切るクロンダイクやその姪の身など、案ずるに値しないものだった。言ってしまえば、たとえ彼女が殺められるようなことがあっても、せいぜい多少シナリオが端折られる程度の話でしかない。それでも構わない、そうホイストは思ったのだ。
「……本当に宜しいのですね?」
「ええ」
 彼女の返事を聞くと、ホイストは電子端末を取り出し、うやうやしく部屋のロックを解除した。



 ――もう何日こうしているだろう。フリーセルは手のひらのペンダントを見つめながら、漠然と思った。
 初めのうちは感じていた寒さも空腹も、今はもうない。ママは来ない。カイトも。そう考えると、このまま死んでしまってもいいような気分になる。ベッドと必要最低限の調度品しかないこの部屋はどこか母親のそれに似ていて。そんな部屋で孤独に死ぬのが、母親に固執してきた自分には相応しいとさえ思えた。
 そんな、フリーセルが何十回何百回と繰り返してきた思考を遮るように。
 キィ、とドアの開く音がした。
「ごきげんよう、フリーセル」
 静まった部屋に、脳天気な声が響く。この薄暗い空虚な場所には不似合いなほどに甘ったるいその声の主こそ、彼がこんなところに軟禁されている遠因だった。しかしそのメランコリィが部屋に入ってきても、フリーセルは視線ひとつ動かさない。相も変わらず横たわってペンダントを見つめるだけ。彼女の姿など、視界に入ってさえいないのだった。
「フリーセル、おやつの時間ですわよ」
 ずいっ、とメランコリィがフリーセルに顔を寄せる。その手には、プレートに載ったティーカップにポット、それからケーキ。軟禁中の人間に対する差し入れには、あまり相応しいとはいえない代物である。
 天使のような微笑みを浮かべ、メランコリィは楽しそうに言う。
「うふふ。召し上がるでしょう?」
「……」
 無神経なメランコリィの様子に、フリーセルが眉をひそめる。一方彼女はといえば、ようやくフリーセルの関心を得られて嬉しそうだった。
「これ。本当は私の今日のおやつなんですけれど、私の口には合わなかったから、差し上げますわ」
 プレートを差し出され、ちらりと一瞥した。成程、綺麗に一口分だけ削り取ったような跡がある。
「……いらない。そんなことより、僕はカイトに――そうだ、カイト、」
 メランコリィの背後、彼女が入ってきたドアが視界に入る。今なら鍵は開いているはずだ。このまま彼女を振り切ってしまえば外に――いや、彼女を人質にして直接クロンダイクに――そうすれば、
「行かせませんわよ」
 メランコリィは手に持っていたプレートをサイドテーブルに置き、立ち上がろうとするフリーセルの上に、腰を下ろした。ちょうど臍の上に跨がるような格好になる。フリーセルは、これで動けない。
「だーめ。大人しくなさって」
「降りてくれないかい、メランコリィ。君なんかに構ってる暇はないんだ」
 ぴしゃりと言い放つと、メランコリィはむっとした表情になる。
「あなたってば、いつも大門カイトのことばっかり気にするんですのね。 少しくらい、私のお茶会に付き合ってくださってもよろしいんじゃありませんこと?」
 お茶会――マッドハッター。気違い帽子屋。彼女の帽子がそんな連想をさせる。本当に、気でも触れているとしか思えない。今まではこちらを避けていたくせに。拒んでいたくせに。なのに、今更になって求めるようなそぶりを見せてくる。
「もしかして、私が上になるのは初めてじゃありませんこと? なかなか悪くないですわね」
 そう言って、メランコリィはくすくすと意地悪く笑う。
「いつも見下していた私から見下される気分は、どう?」
 ああそうか。いやに絡んでくるのは、支配する側に立ったからか。フリーセルは一人納得する。ならばこの状況は、彼女なりの意趣返しのつもりなのだろう。浅ましい女。侮蔑を込めて少女を見る。
「こわくなんてありませんわよ」
 メランコリィは事もなげに言った。
「だって、今のあなたにはなあんにもできないんですもの。そんな覇気のない眼で睨まれたって、ちっとも怖くありませんわ」
 彼女の言う通りだった。飲まず食わずで朦朧としているこの状態で、脳の活性化もないだろう。切り札は使えない。内心で舌打ちをした。
「さ、紅茶が冷めちゃいますわ」
 フリーセルの上に跨がった格好のまま、メランコリィはサイドテーブルへ身体を伸ばし、ティーカップに紅茶を注ぐ。
「……この体勢じゃ、飲みようがないと思うんだけど?」
「あら、そういえばそうですわね。あなたが逃げようとするからこうなるんですわよ」
  皮肉っぽく言ってみると、メランコリィは少し考えこむような仕草を見せた。拒絶されたことに気付いているのかいないのか、いずれにせよけろりとしたものだった。
「なら、こうしましょうか」
 メランコリィが、手にしたティーカップを自らの口元に運ぶ。さすがにこの体勢で飲ませるわけはないか、とフリーセルは安堵する。彼に普段のような聡明さが残っていれば、次に起こる展開を予測できたかもしれないのだが――しかしそうはならなかった。
 メランコリィがフリーセルの冷えきった頬に手を添える。視線が交わる。少し潤んだエメラルドの瞳。金色の長い睫毛。普段の少女然とした姿とは別の妖艶な表情に、一瞬どきりとする。彼女が首を傾けると、長い柔らかな巻き毛が頬に触れた。吐息が掛かる。そして。
 唇が重ねられる。
「――!」
 舌が強引に割り入れられ、温かく甘い液体が口腔内に流れこんでくる。
 俗に言う、口移し。
「んぐ……がふっ、」
 飲み込めるわけがなかった。フリーセルが思わずメランコリィを突き飛ばす。上半身を起こして荒い息を吐きながら紅茶を吐き出すと、散らされた雫が、シーツや枕、衣服を汚した。
「げほ、……っ」
 未だ咳き込むフリーセル。その頬を、突如メランコリィが張り倒した。鋭い痛みが走る。
「自分の立場を分かってないのかしら」
 冷ややかな声。メランコリィはフリーセルの肩を掴み、倒れ込むようにして無理矢理押し倒した。抵抗する間もなく、生白く細い首に手を伸ばされる。力が込められる。……気づけば、首を締められるような体勢になっていた。
「今ここで、くびり殺してほしいんですの?」
 メランコリイが、ぐ、と手に力を込める。押さえつけられた首筋に、髪に、先程吐き出した紅茶がじっとりと染みこみ、フリーセルを侵していく。
 口先だけの脅しでないことは明白だった。思い通りにならない玩具は壊して捨てるだけ。いかにも彼女らしい。
(……ここで死ぬわけにはいかない。だってカイトに、カイトに会わなくちゃ、)
 カイト。その名を思い浮かべると、心の隅に小さな光が灯った。――そうだ。僕はカイトに会わなくちゃいけない。会ってもう一度だけ、本気のパズルを。
 急に大人しくなったフリーセルを、メランコリィはつまらなさそうに見下ろす。
「……また、他の方のことを考えてるんですのね」
 まあいいわ、と吐き捨て、再びメランコリィが口に紅茶を含ませる。唇を重ねる。吐き出してしまいたいが、彼女はそれを許さない。首筋を抱きすくめられ、仕方なく嚥下する。
 ごくん、とフリーセルの喉が鳴ると、メランコリィは満足そうな笑みを浮かべた。
「喉。乾いてるんでしょう? 遠慮しなくても、好きなだけ飲ませて差し上げますわ」
「……できれば遠慮したいんだけど」
「あら、今更キスぐらいで動揺? 今まで貴方が私に何をしてきたか、忘れたわけじゃないでしょう?」
 そう言って、メランコリィはまた唇を重ねた。
 彼女のこれは意趣返しなんてものではない。報い、あるいは罰。
 フリーセルが癇癪を起こして仲間に当たり散らしたことは数度ではきかない。特に、絶えず彼に怯えていたメランコリィなどは格好の獲物だった。何でもするから許してと懇願する彼女を追い詰め、気を晴らすこともあった。それが今、こんな形で返ってきている。
 つまりフリーセルが絶対的弱者であるというこの状況が、彼女には面白くて仕方ないのだ。
 何度目かも分からない口づけを終え、ようやくメランコリィが一息ついた。
「ふぅ……ま、紅茶はこんなものでいいかしら」
 空のティーカップをテーブルに置き、彼女は皿を手に取った。その上には、色とりどりのフルーツが散りばめられた1切れのケーキ。
「……まさかとは思うけど」
「ご明察、ですわ」
 ケーキをフォークで一口大に切り分けながら、メランコリィが言う。切り分けたその欠片にフォークを刺し、そのまま咥える。あとは先程までと同じこと。唇を重ね、舌を使って彼の口内に押し込めた。冷たくて甘い感触がフリーセルの口の中に広がる。
 嫌悪感を露わにするフリーセルに、メランコリィは愉快そうな笑みを浮かべた。
「お味はいかがかしら?」
「甘すぎ。……吐きそう」
 返事を聞いて、メランコリィがむっとする。今までと同様の素っ気ない拒絶の言葉が、なぜか今度は気に入らないらしかった。
「はあ!? そんなわけありませんわ! だって私が選んだ――」
「……君、さっき口に合わなかったとか言ってなかったっけ」
「え? あ、」
 フリーセルの指摘に、しまった、という顔をするメランコリィ。しかしこの失言の意味について考えるほど、彼の意識は彼女に向いていない。フリーセルは溜め息をつき、虚ろな目で残りのケーキを見る。
「さすがにこれは自分で食べるよ」
 そう言って上体を起こそうとするが、メランコリィの差し出したフォークに制される。
「また暴れられたら嫌ですわ。ほら、あーん♪」
「……」
「あーん」
 ぐいぐいと口元に無理矢理押し付けてくる。クリームがフリーセルの頬と顎を汚すが、メランコリィは気にも留めない。
「ほ・ら、」
「……」
 べとべとした不快感に耐えかね、フリーセルが心底嫌そうに、フォークの先をぱくりと口に入れた。メランコリィが蔑むように笑う。
「きゃははっ、よくできましたわねえ、フリーセル。いい子いい子。でも、」 
 メランコリィが、人差し指をフリーセルの口元に這わせる。そうして顔に付着していたクリームをぬぐうと、意地悪く笑ってフリーセルに見せつけた。
「汚しちゃって、悪い子ですわねぇ。ほら、ちゃんと綺麗にして」
 メランコリィが細くしなやかな指を差し出す。舐めとってみろと言いたいのだろう。そんな彼女の戯れに辟易しながらも――フリーセルは一瞬の間を置いて、差し出された素直に指を咥えた。指の腹にべったりと付いたクリームを、じっくりと丁寧に舐めとる。
「……ん、……っ」
 メランコリィが、初めて動揺した様子を見せる。頬を紅潮させていくのが、フリーセルにもよくわかった。
 わざとらしく音を立てながら、フリーセルは何度も何度も、彼女の指先を丹念に舌先でなぞる。甘いクリームがすっかりなくなったあとも、まるで味わうように。味わい尽くすように。その感触は、官能的ですらあって。
「い――い、いつまでやってますのっ! もういい! もういいからっ!」
 耐え切れなくなったメランコリィが悲鳴を上げる。
「これくらいのイタズラで怒らないでよ。それとも、」
 フリーセルが、ニヤリと挑発的な笑みを浮かべる。
「自分で命令しておいて恥ずかしくなったの?」
「〜〜〜っ!」
 図星らしかった。羞恥に染まった顔で、メランコリィが睨みつけてくる。
「こんな格好で乗ってるのに、今更じゃない? もしかしてこの体勢も、じつは恥ずかしかったりする?」
 馬乗りになったままの、無防備な腿に手を添える。メランコリィの肩が強張り、表情に恐怖の色が差す。そんな彼女の様子を横目に、フリーセルは、そのままミニスカートの下に指を這わせようとする。
「やだっ!触らないで!」
 メランコリィがヒステリックに叫んだ。対照的に、フリーセルからは笑みが漏れる。
「あは、そっちのほうがお似合いだよ、メランコリィ」
 そうだ。彼女はこうでなくちゃ。自信に満ちた愛らしい顔立ちを恐怖で歪ませてやる、この感覚がたまらない。そう、このまま彼女をベッドに引き込んで壊してしまえば、
「いい加減にしてっ……!」
 ……メランコリィが、声を絞り出すように、そう言った。彼女の脚に触れていたフリーセルの手は、彼女に強く強く掴まれていて。うっすらと血がにじむほど、爪を立てられていて。彼女が本気で恐怖していることを、必死で伝えられていた。
 フリーセルがゆっくりと手を離すと、メランコリィは掴んでいた手をゆるめ、怯えたように彼を見た。抵抗したことで、怒らせたかもしれないと思っているようだった。
「……」
 そんな彼女に、フリーセルは無言で返す。別に怒っているわけではない。ただ興が削がれただけ、気分が冷めただけだった。彼女に拒絶されようと、傷を付けられようと、痛みさえ感じない。結局のところ、今のフリーセルにとって、彼女の存在など大した意味を持たないのだ。今回の来訪にしてもそう。彼女が勝手にちょっかいを掛けてくるのを、適当にやり過ごしただけに過ぎなかった。
 メランコリィは、少しだけばつが悪そうに彼の手首を見て――おずおずと、ベッドから降りた。
「……今日は、もう帰りますわ」
「そう、残念。これからだったのに」
 メランコリィがぽつりと漏らすと、さして引き止める風でもなくフリーセルが言う。この挑発的な軽口に、もうメランコリィは乗ってこない。彼女は少し乱れていた衣服を簡単に整えると、紅茶とケーキが乗ったプレートをサイドテーブルに置き去りにしたまま、部屋の出口に足を向けた。
 出て行きざま。メランコリィが一度だけ振り向いた。素っ気ない声色で、言葉を紡ぐ。
「……そうそう。パンと水。少しは手をつけて頂きませんと。勝手に死なれたらいい迷惑ですわ。もっとも、」
 そこで嫌味たっぷりな表情を浮かべ、彼女はこう言った。
「また私に食べさせてほしいというのなら、止めませんけれど?」
 彼女の言葉に心ひとつ動かされることなく、フリーセルもこう返す。
「それは――後免だね」
「あらそう。つれないんですのね」
 自嘲するような笑みだけを残し、彼女が視界から消える。
 そしてその頃には、フリーセルの意識は再び闇へと落ちて行っていた。


「――カイト、」